天才

  • 著者: 石原慎太郎
  • 印象: 1 (1-3)
  • 読んだ時期: 2021年7月

 

田中角栄の生涯を本人の一人称で記述した小説。自伝ではないのであくまでもフィクションだが、基本的には過去の調査文献などを参考にしており史実に基づいて書かれていると思う。

 

去年の日経新聞広告欄で、何回か広告を見つけて、ちょっと興味があったのだが、先日図書館で伊坂幸太郎の小説を探すべく「い」の作者棚を検索していた所、本書が置かれているのを発見し、気づいて、借りて読んだ。

 

政治家としては超異端の経歴を持つ人物の栄光と挫折が一人称で書かれている。田中氏の経歴は何となく知っていたが、どんな風に生きた人物だったのか、本書でよくわかった。が、読み終わってみると、それ以上の深い感慨は特にない。私の履歴書のちょっと長い版を通しで読み終わったような、そんな気持ちになる。であれば、本人が書いてる私の履歴書でよくね? という気がしないでもない。

 

田中氏の生い立ちの部分、例えば馬狂いの父親の尻拭いのために金を借りたりしてるうちに世の中における金の効用を知ったところとか、吃りを克服したところとか、そういったところは興味を持って読んだ。また、総理大臣になってから、中国との国交回復のために毛沢東と会談するところとか、そういったところも面白かった。ただ、私の履歴書プラスアルファとして物足りなさを感じたのは、僕の中で比較対象が「竜馬が行く」になってしまったからであると思う。

 

司馬遼太郎は、ある人物を小説にするには、その人が死んでから100年は経っていないといけない、という考えを持っていたらしい。人物の歴史的な評価には相当の時間がかかるし、かつ直接的な当事者がいなくなることによって、適切な距離をおいて人物と向き合うことができるようになるのに、それくらいの発酵期間のようなものが必要だということなのだと思う。この小説は、歴史小説としては内容が薄い (なんせ文字が大きくて行間が広い) し、まだ生臭さが残っていて、熟成期間が足りないという気がした。

 

本人の生き様は男としてカッコよくはあるのだが、不倫相手との間に3人の子供がいて、その家族と自分の親族とを取り持つために顔合わせしてみたけどうまく行かなかった的なエピソードとか、その不倫相手との間にできた息子がヒッピーかぶれしてたので押さえつけてハサミで髪を切ってやった的なエピソードは、いかにも昭和の香りがして、ミレニアム世代ギリギリの僕にとっては興味深さはあっても共感とかはできなかった。なのでこの小説が社会に与えるインパクトという観点からいうと、新しい世代が田中角栄を目指して政治家を志すといった働きは多分なくて、田中角栄をライブで見てきた団塊の世代くらいの人々を、「やっぱり角さんすごかったなあ」と、居酒屋で阪神タイガーズの話をするのと同じノリで感慨にふけしめるような働きにとどまるように思う。余談だが、孫正義の自伝的な本である「志高く」は、読んでて奮い立つものを感じる。

 

なので、田中角栄がもし石原慎太郎氏がいうように天才だとすれば、2093年くらいに、「トロッコを押す」みたいな題目の、坂の上の雲的な感じの田中角栄に関する歴史小説を誰かが執筆してくれるはずで、そのときにこの小説は資料としての価値を見出されるのではと思う。2093年は多分僕は生きてないので、読めないのが残念ではある。

 

話は変わるが、本人の一人称の小説に、「天才」という、それ自分で言う?的なタイトルをつけてしまったのはなぜなのだろうか。著者が田中氏を尊敬していて、政治家としては稀有の天才であった、と強く思っていることは、あとがきを読んでよくわかったけども、だからといってそれをタイトルにするのはどうなんだろうか。確かにインパクトのあるタイトルなので、読みたい気持ちが喚起され、マーケティング的には成功してるようにも思うが、小説として適切なタイトルかというとどうかと思う。だって田中氏は本書の中で一度も「俺は天才だ」とも、「周りは俺を天才と呼んだ」とも言ってないんだもの。このタイトルからしても、本書はやっぱり昭和世代の人たち、および70年後に田中角栄を歴史小説化する誰かに向けて書かれたものであるという気がした。

 

そしてこの際ついでに言うと、表紙の写真 (角栄氏がハサミで自分の髭を切ってる) も意味がよく分からない。有名な写真なのかな? ハサミなんか汚いし。いい顔ではあるけども。

 

今の所、日経新聞広告欄で大々的に広告されている書籍は個人的に当たりがない。