氷壁

  • 著者: 井上靖
  • 心に響いた度: 2 (1-3)
  • 読んだ時期: 2022年5月

 

登山中にザイルが切れて遭難死した男の事故を巡って男女が色々交わる話。

 

昭和30年位の小説で、寝タバコを普通にしたり、女性が大変つつましかったり、会社から給料を前借りしたりなど、今読むと隔世の感があるが、物語は全然色あせていない。登場人物は最小限で、会話も短く、余計なものが削ぎ落とされていて、素直に読める。

 

数十年前にこんな小説を書かれてしまったら、そら今の作家は伏線に伏線を重ねて、ラスト数ページに大どんでん返しを持ってきたりしないと、オリジナリティを出せないだろうなと思う感じの、ストレートに心に届く小説だった。

 

本小説を通して語られているのは、真実とは何かということだと思った。遭難事故を引き起こしたザイル切断の真の理由、および、遭難死した小坂の胸のうちというのは、小説では語られない。主人公の魚津が最後にとった行動の本当の理由も、結局語られない。これらは、作家がその気になれば、当然描写が可能なはずだが、あえてそれをしなかったところに、作者が人間に真に迫ろうとした迫力というか挟持みたいなものがあるように思った。

 

主人公である魚津の上司である常磐は、本社の出世コースから外れて子会社に左遷された人物であり、小説冒頭の魚津とのやり取りから、すげー嫌なやつだと思っていたら、実はそうではなくて、いい味を出してくるところがいい。常磐みたいな人物は、もう世の中にはほとんど残っていないだろうし、こんな感じの人物を小説に登場させようという小説家ももういないんじゃないかと思った。