親鸞 (激動編)

  • 著者: 五木博之
  • 印象: 3 (1-3)
  • 読んだ時期: 2021年5月

 

浄土真宗の宗祖とされる親鸞の生涯を描いた作品。よく分からず借りたが、激動編は青年期を描いた作品の続編的な位置づけであるらしい。

 

昔の歴史で習った内容を既に忘れたので既存事実がどういうものかわからないが、本作の中で親鸞は、比叡山での厳しい修行の末に仏の姿を見る (悟りをひらく的な位置づけ?) ことができず、心の中に潜む放埒を恥じ、挫折を繰り返す、人間味のある人物として描かれている。

 

法然から受け継がれて親鸞が広めた念仏とは、南無阿弥陀仏と唱えるだけで、極悪人でも死後の浄土が約束されるというものであり、それは阿弥陀仏が、(修行や喜捨を行わないために) 他の仏に見捨てられた人間を救うことを目的として誕生した唯一の仏であるためである、という教えにより、階級の隔てなく人々に浸透していった。一方で、人々が救われるのはあくまでも死後であり、今目の前にある貧困、病気などの苦難が消えるわけではない。念仏を唱えることで、遊び女が明日から体を売らずに生活できるようになるわけでもないし、干ばつが続く大地に雨をもたらすような超常的な力を発揮するわけでもない。では念仏とは何なのか、何の役に立つのか、と、親鸞はある日の法話で民衆の一人に問われる。それに対する親鸞の応えが印象的で、それはこんな感じの内容だった。

 

自分た小さい頃、訳あって山の向こうの村に真夜中に行くことになった。目を開けてもつぶっても変わらないくらいの真っ暗な道を歩き進めるうちに疲弊し、崖が眼前に迫り、身動きが取れなくなった。そのときに、視線の向こうに村の明かりが僅かに見えた。その明かりによって、自分が目指すべき道が明確になり、歩みを進める気力が湧いてきた。明かりが見えたことで、自分の体力が回復したわけではないし、眼前の崖がなくなったわけでもない。状況は何一つ変わっていない。しかし、その明かりを道しるべに、自分は歩みをすすめることができた。自分にとっての念仏とは、そのときの明かりのようなものである。