親鸞

  • 著者: 五木博之
  • 印象: 3 (1-3)
  • 読んだ時期: 2021年7月

 

5月に読んだ激動編の前作にあたる、親鸞の生涯を描いた作品の一作目。9歳で比叡山に入山したときから、20年後に山を離れて聖になり、法然に帰依し、その後越後に流されるところまでが描かれている。

 

激動編のところでも書いたが、(専修) 念仏とは、南無阿弥陀仏と唱えるだけで、善人、悪人、老若男女、貧富の別なく、全ての衆生に死後の浄土が約束されるというものである。当時は平家が滅び、鎌倉幕府が樹立されるまでの不安定な政情 (末法の世) であり、生きるために手段を選べず大なり小なり悪に手を染めなければならない民衆が増える中で、貴族や国家ばかりを見て、民衆に寄り添う姿勢が失われた従来の仏教に変わり、民衆から圧倒的な支持を得た。

 

親鸞が法然から受け継いだ専修念仏の考えは、誰にでも分かる平易なものだが、それだけに危うさをはらんでいる。その1つが、「念仏さえ唱えればどんな悪事を働いても構わない」とする考えであり、このような考えは専修念仏と相容れるのかどうか、というテーマが、本小説では何度も出てくる。説法の場において民衆が持つ素朴な疑問でもあれば、専修念仏の普及を目論む鼻息の荒い法然の高弟による触れ込みでもあれば、親鸞自身が持つ疑問でもある。この疑問に対する親鸞の考えは小説内で一応示されていて、それは以下のような感じである。

 

念仏さえ唱えればどんな悪事を働いても構わない という考え方は、自力の念仏である。本来の念仏とは他力の念仏である。他力の念仏とは、阿弥陀を信じることによってその存在に気づき、阿弥陀からの呼びかけに対して喜びのあまり無意識に出てくるものである。要するに、うわべの形式だけをみてると、最終的には形骸化するんだなと思った。

 

物語についての言及をほとんどできていないが、仏教徒は何か、念仏とは何か、ということを読みながら考えさせられる小説だと思う。