読書感想文: 親鸞 (完結編)
親鸞 (激動編)
- 著者: 五木博之
- 印象: 2 (1-3)
- 読んだ時期: 2021年7月
親鸞3部作の完結編。60歳を過ぎて都に戻ってからの晩年の親鸞を描いたもの。
晩年の親鸞は、特に何もしない。専修念仏を世に広めるという使命感を持ちながら、机に向かって書写をしたり、訪れる人の質問に答えたりしながら生活している。親鸞の周りでは、基本的に何も起こらない。
その代わり、親鸞を取り巻く人々の間で、いろんなことが起こる。基本的には、専修念仏を亡国の思想と見なして親鸞もろとも消し去ろうとする覚連坊と、念仏や親鸞を守ろうとする仲間たちとの切った張ったが展開される。そして、切った張ったに関わってくる登場人物の大部分が、1、2作目に登場した人物であり、絶体絶命のピンチで登場するのが死んだと
さながらカーテンコールのようでもある。意外な人物が意外な場面で登場したりして、それなりに面白いのだが、親鸞の青年期〜壮年期に登場した人物が再登場しているため、当然ながら登場人物は軒並み高齢化しており、懐かしさは感じつつも、作品全体に加齢臭が漂っており、昔のアイドルが年を経て当時の衣装で歌い踊っているのを見るような一抹のやりきれなさを感じなくはない。
1、2作目では、さらわれた同居人を命を顧みず助けにいったり、失敗したら抹殺必至の雨乞い法要を飲まず食わずで1週間ぶっ通しで行ったりと、類まれなる存在感を遺憾なく発揮していた親鸞だが、本作での親鸞は明確な何かを成し遂げるわけではなく、凡夫として日常を送っている。法然から引き継いだ専修念仏の概念を自分なりにまとめたりはしつつも、易行念仏の誤解されやすさ (一回でも念仏すれば浄土が約束される→どんな悪い子としても許される) に相変わらず悩み、息子との関係に悩み、遠くで暮らす妻から便りが来ないことを嘆き (同居している孫には来る)、死後の浄土を確信しつつもあわよくば長生きしたいと思う自分に失望したりしながら毎日を過ごしている。
専修念仏の提唱者で親鸞の師匠である法然は聖人風の描写が多いが、親鸞は自らを十悪五逆の悪人と考え、自分や同じような立場にある民衆を救うために念仏を広めようとしている。
親鸞の孫にあたる覚信という人物がいるのだが、彼女はある時から親鸞のことを生き仏であると信じるようになる。それを覚信から聞いた親鸞は、血を分けた子供にさえ専修念仏を正しく理解してもらえない世の中に深く失望するのだが、この覚信というのは読者そのものであるように思う。宗教界の偉人である親鸞が、何か奇蹟を起こしたりする展開を読者は何処かに期待するわけだが、あえて何も起こらない親鸞の日常を描くことによって、親鸞といっても我々と同じ人間、凡夫だったのだと勇気を与えられるとともに、そこに逆に親鸞の凄みみたいなものを感じさせられる。