祖父の他界
8月8日に祖父が他界した。95歳だった。今日が通夜だった。
昭和二年生まれの祖父は、少年時代に第二次世界大戦を経験し、16歳位のときに特攻隊に入隊して、出撃を待っている間に終戦となった。終戦後、父親の家業(農業)を手伝って3人の弟を進学させた。
祖父が30-40代(多分)のときに、ちょうど地元に国道が通ることになり、車社会の到来をいち早く察知した祖父は、親戚と銀行に頼み込んで借金し、工業団地の近くの土地を買い上げて(かもともと持っていた土地を整備して)駐車場にし、それなりの財産を築いた。
60を過ぎてからも毎日農作業をしていたが、僕が小学校2年生くらいのときに、突然車にはねられて大怪我をする。僕の両親はそのとき東京に住んでいたが、祖父と曽祖父母と暮らすことに決めて恵那に引っ越し、僕は以降高校卒業まで恵那で祖父と暮らした。
祖父には息子がおらず、僕の父親が婿養子となって可知家に入った。そういう関係もあってか、僕は祖父に大変可愛がられ、休みになると自分が持っている山や農地に僕を連れていき、色々教えてくれた。先祖と先祖が残した土地を大切にし、ゆくゆくは僕が可知家の当主として引き継いでほしいという思いを持っていたのだと思うが、当時の僕にはそういったことは重荷であり、表向きは素直に聞いていたが、勝手に人の人生を決めるんじゃねえという反発心も少なからずあった。
高校を卒業してからは、僕は京都で一人暮らしをすることになり、それから今まで、祖父に会うのは基本的に盆と正月だけになった。
祖父が僕に話すのは、①先祖を大切にすること、②土地を大切にすること、③借金の保証人にはならないこと、がメインテーマだった。盆と正月に帰省するごとに祖父と話をしたが、毎回テーマがほぼ同じなので祖父の話をあまり真面目に聞いておらず、テーブルの下に漫画や本を置いて読みながら聞いたりするなど、大変失礼な孫だった。
いつも目を細めて微笑みをたたえる穏やかな顔をしていた祖父だが、大学時代に僕が髪の毛を金髪に染めたことは心外だったようで、いつもの微笑みの裏に影があり、「自重しろよ」と何回も言われた。髪を染めるのはその時で最後にした。
僕が働き始めてからは生活に困っていないかをしきりに気にして、それとなく僕の年収を聞いてくることがあった。僕は当時の年収の高めにサバ読みした金額を伝えていたが、あのハッタリは多分祖父に見抜かれていたかもしれない。
昭和生まれの特攻隊員である祖父は、良くも悪くも、「俺が俺が」的な人物であり、80後半になっても、不動産の事業を僕の父親に承継しなかった。数年前に一度、心筋梗塞で倒れ、生死の縁をさまよったことがあり、流石にもう潮時だと思ったのか、僕の父親に管理を譲ったそうなのだが、その後体調が回復すると、やっぱり俺が自分でやる と言い出し、権限をもう一度自分のもとに集約させたらしい。仕事が趣味みたいな祖父の気持ちも分からなくはないが、父は父で、様々な苦労があったのだろうと思う。
祖父は土地で一財産を築いたが、株で失敗したこともあり、一説によると家一軒分くらいの損失を出したらしい。それに対しては賛否両論あるらしいが、僕としては、何事にもリスクはつきもので、そういう失敗があるからこそ今の家があるのだろうと思う。
ここ1-2年は、心筋梗塞からは復活したものの体調は万全とは言えず、ベッドで横になることも多かったが、結構元気そうだった。今年の7月中旬に、体調不良を訴えて病院に行ったところ、細菌感染などのために入院することになった。2周間で退院できる見込みだったが体調は回復せず、そのまま病院で亡くなってしまった。
新型コロナウィルスのために最近は帰省することができず、最後に祖父に会ったのは2020年の正月だった。移転したバローのあるショッピングモールで寿がきやのラーメンを一緒に食べたが、麺のコシが強すぎたのか祖父はほとんど食べていなかった(晩御飯の焼肉はたらふく食べていた)。今年のGWに帰省しようと思っていたが、大阪で緊急事態宣言が発令されたため、帰省を見送った。7月末の、緊急事態宣言が再発令されるギリギリのタイミングで帰省したが、既に祖父は入院中であり、同居中の家族以外は面会謝絶の状態だった(同居中の家族も、容態がかなり悪くなって初めて面会が許可された)。
最後を看取ることができなかったのはとても残念で、祖父も同じく残念だったと思うが、祖父の人生全体からすればその無念は誤差であり、祖父の人生は幸せで恵まれたものだったと思う。棺の中の祖父の顔は寝ているようだった。
通夜を終えてさっき実家に帰宅し、形見になるものはないかと思い祖父の部屋の引き出しを勝手にあけていたら、今年の日記が出てきた。自身の体調についての記述に加えて、アメリカ大統領線、オリンピック、コロナ感染状況などのニュースに対するコメントなどが記されており、新聞を読む習慣は他界するまで変わらなかったようだ。
その中に、時折僕と僕の家族についての記述があった。4月18日、直芳と電話。堺に移住して二年半、(直芳もようやく)人生の辛苦を少しずつ分かって来た様に思う、とあった。一方で、僕が堺に住宅を買ったことと、三重県の会社で遠距離勤務していることについてはずっと気がかりだったようで、「とりあえず若さと気力で頑張れ」とのエールが記されていた。
帰省できない代わりに一度ビデオ通話をしたのだが、難聴が進んでおりあまり上手く会話ができなかった。それでも顔を見られたことは嬉しかったようで、5月1日の日記は、「通話を切った後もしばらくは孫達(曾孫達?)の顔が浮かび穏やかな気持ちが続く、懐かしい慰めになる」と締めくくられていた。
最後の日記は7月4日で、ワクチン2回目接種後の肩痛が少し和らいできたことと、熱海市の大雨・土砂崩れの記事スクラップが貼られていた。
その他、辻政信著「潜行三千里(完全版)」がスクラップされていた。祖父の代わりに読んでみようかと思う。
その他、不動産支払調書の裏側に、引用なのか創作なのかわからないが、以下のような走り書きがあった。
子を育てて父母の御恩を知り、身を立てて世の中の辛苦を覚え、労を重ねて先親の偉行(?)を悟る
もしかしたら4月18日に僕と電話した後に書いたものかもしれない。
あと、「修養格言全集」という題目の、かなりボロボロの手帳大の冊子の中に、ところどころ線が引かれていたので、祖父からの遺言として記載しておく。
・錦を衣て絅を尚ふ。(詩経)
・辭讓の心なきは人に非ず、惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり、辭讓の心は礼の端なり。(道義)
・陰徳あれば陽報あり、徳は不祥に勝り、仁に百禍を除く。(列女傳)
・一薫一蕕十年なほ臭あり。(左傳)
・貌言は花なり、至言は実なり、苦言は薬なり、甘言は病なり。(史記)
・言ふよりも言わで思ふは勝るとて、問はぬも問ふに劣りやはせじ。(風雅集)
・沈黙せよ、然らざれば沈黙に優れる事を言へ。(ドイツ諺)
・遣ひ尽くしたる後に節倹を為すは既に晩し。(パプリアス、サイラス)
・子を持ちて知る親の恩。(日本諺)
・無くてならぬ人となるか、有ってならぬ人となれ、沈香も焚け、屁もこけ。(河井継之助)
・堪へ難きに堪へたる事は、想起する毎に愉快なり。(セエカ?)
・機会は発見するごとに之を捉へざるべからず。(ベーコン)
・当然の苦痛は、不平を鳴らさずして之れを忍べ。(ジョンソン)
・鎡基ありといえども、時を待つに如かず。(孟子)
・天稟も決して勉強を軽視すること能はず。(アベル、スチブンス)
・屡々打てば樫も倒る。(ドイツ諺)
・遅延するも消滅すること能はず。(英国諺)
・今日の武士は明日の乞食。(日本諺)
・生命を失はんよりは足を失へ。(英国諺)
・不用の物を買ふ人は、有用の物を売らざるを得ず。(イタリア諺)
・流行の衣服を着ることを競ふは身代限りの先触なり。(?世)
・利得を思はんよりは寧ろ費を省くべし。(?世)
・傑士には数多の敵あり、然れども亦真正なる朋友あり。(リツトン)
・貧は羞づるに足らず、羞づべきは是れ貧にして志なきなり(以下略)。(呂しん)
・温故きを温ねて新しきを知る。(孔子)
じいちゃん、今までありがとう。